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Ep.11
中村人形 四代目 中村弘峰氏インタビュー
久しぶりのアップになります皆さんお元気でしょうか?
本日はDraw Pac ver.7発売を記念して今回デザインを担当していただいた人形師 中村人形四代目 中村弘峰さんにお話を伺っていきます。弘峰さんとの出会いは友人のSNSのポストで偶然見かけたのがきっかけとなります。当時私はあまりにも好きすぎて展示会期中の在廊を狙って突撃し、意中の女性に告白するような雰囲気で「好きでっす!」とご本人に伝えた程であります 笑
個人的にこのタイミングで中村弘峰氏とのコラボ商品をリリースできることをとても嬉しく思っております。
中村人形四代目中村弘峰さんを知ってる人も、知らない人も彼の素晴らしい人柄をインタビューを通してお伝えできればと思っております。ちなみにロングインタビューでっす!
-弘峰さん本日はよろしくお願いします。
中村さん
本日はよろしくお願いします。
-この質問はたくさん聞かれていると思いますが改めて、、人形師になったきっかけを教えてください
中村さん
きっかけはこの家に生まれてしまったからですかね(笑)
生まれてしまった瞬間自動的に決定みたいな、そんな感じです。
-他の道へ行きたくなったことはありますか?
中村さん
他になりたいものがあったらそっちの道に行ってもいいとは言われていたんですけど、そこでニーズが一致したんですよね。どういう意味かっていうと、子供の頃から運動とか勉強とかよりも圧倒的に絵を描く方が好きだったんですよ。毎日こういう仕事をしていきたいなと思ったのと、後を継いで欲しいというニーズが一致したので悪くないなっていう感じでした。好きな絵を仕事で描けるなんて毎日夏休みやん!って思って(笑)だから保育園の卒業文集で将来の夢は人形師になることって書きましたね。
あと祖父のお弟子さんに面白い人がいて、日本に出稼ぎで来ていたんですよ。当時タイに住んでいて人形の仕事をしてタイに帰るみたいな。笑 そういうおじさんが割り箸とゴムで、ゴム銃を作ってくれたり、折り紙とかも凄かったんですよね。工房にいたらすぐに遊び道具を作ってくれて、、そういう環境にいると人形師ってかっこいい!自分もそうなりたいみたいな憧れがありました。
-すごい環境ですね。羨ましいです!物心がついた頃から物作りの現場にいらっしゃったのですね。中村家ではおもちゃを買うのではなくて作る、生み出す家系ですね。
中村さん
そうですね。私が子供の頃にジブリ映画「紅の豚」の飛行機が欲しかった時は、父がバルサ板を削って飛行機を作ってくれました(笑)操縦する豚も再現してくれて。「ゼロ→イチ」でおもちゃが出来上がっていく体験から、「色々作れるようになりたい!」という強い思いが子供の頃からありました。
-そのような体験ができる家庭はなかなか周りにいらっしゃらないと思いますが、他の家庭との何か違いやギャップはありませんでしたか?
中村さん
めちゃくちゃありましたね。笑 小学生の時に「六地蔵」の劇があったんです。私は六地蔵の地蔵役を任されることになり、地蔵役なのでもちろん私は動かないのですが、地蔵役で使う小道具は家で作ってこなければいけない話になって錫杖を作ることになりました。周りのみんなはトイレットペーパーの芯とかで作ってきたのですが、父に錫杖制作を相談したところ、、いきなり竹を取ってきて作り出して、次に錫杖の上の音が鳴る部分は針金とハンダを使って本当に音がなるようなやつを作ってもらいました。出来上がりはほぼ本物に仕上がっちゃって(笑)で、学校に持っていくと、僕だけ本物の錫杖持ってて(笑)「買ったの?」って思われるくらいのクオリティでした。そういうことが昔から多々ありました。
-すごい幼少体験ですね。。羨ましいです。幼い頃からどんなカルチャーに触れていたのですか?
中村さん
ゴジラ、ガンダム、レゴも好きでした。思い返すとレゴで一番遊んだかもしれないです。絵は上手くなるまでに時間がかかるので、パキパキ作れるブロックがストレスなくて好きでした。
レゴは空間を捉える力が発達してきていると感じていましたね。小学校一年生くらいの時には、こういう物を作りたければこうすれば良いみたいな感覚が既にありました。
-絵や彫刻の学校などは通わなかったんですか?
中村さん
予備校は一浪するまではどこも通っていなかったです。藝大を現役受験した時は、父に教えてもらって受験したのですが不合格で。。その後自分が受けた彫刻科のことについて調べてた結果、希望学科の定員20名の内14人が池袋の予備校から合格していたのを知りました。そして父親に予備校にいきたいと相談したら快諾してもらいました。
-大学生活の前に東京での生活が始まるのですが弘峰さんが当時の東京、住んでいる場所などで影響を受けたことはありましたか?
中村さん
僕が住んでいたのが三河島あたり、わかりやすく言うと日暮里の横あたりで、常磐線の一駅目で都内で一番人が降りない駅です。池袋が予備校で、志望校も藝大一本だったので、藝大のある上野に自転車で行けて、学校に行きやすいという理由で住みました。予備校時代から狙い撃ちです(笑)東京で驚いたことといえばはハーネスのついたブーツにソムリエエプロンのイケメンがいたりしたことです。笑
-計画通りに人生設計を遂行している所が弘峰さんらしいですね。予備校生の奇跡的な思い出はここでは端折りますが大学生活での印象深い出来事を教えてください。
中村さん
そうですね。。自分自身を成長させてもらったのはバイトでした。どんなバイトかというと、ガチャポンの原型師のバイトで、藝大の彫刻科に繋がっているバイト先でした。エキスポっていう古道具屋が藝大の横にありましたね。そこは石膏像のガチャポンを企画していたところで、社長が藝大出身、奥さんは有名な現代アーティストでした。旦那さんがめちゃくちゃサブカルの人で、そこでたくさんのサブカルに触れました。超貴重なコレクションもたくさんありましたよ。
そこで藝大とは別軸のアートって???っていう文化に触れ、社会は広いという感覚を学びました。鯨のガチャポンとか出す時は大久保の国立科学博物館の教授のところに勉強しに行ったり、実際に鯨の検査解体を現場で見たりしました。
-私たちが普段知ることのできない藝大生ならではの経験ですね。たくさんの経験を東京で経て福岡にいよいよ戻ることになります。福岡に戻ってこられてすぐに弟子入りされたのでしょうか?
中村さん
東京から福岡に戻ってすぐに弟子に入り、明日から草むしり行ってこいと言われ、そこから一年間は掃除の修行でした。
-弟子入りという今あまりないシステムの中でどのようなことを学びましたか?
中村さん
技術は人形師の方のところに弟子入りして教えてもらうのが通例です。現在、全国的に預かってもらえるところがないので、制作技術は父から教えていただき、精神修行は外に行ってこいと父に言われました。修行は、柿右衛門窯で半年の草むしり、太宰府天満宮で半年間梅の木の剪定をしました。
終わりのない単純作業で必要なことを給料なしでやり、それで人の家の飯を食う。。藝大まで行ったら天狗になってるだろうから、それをへし折ることが必要だと父に言われましたね。
-不安や不満はありませんでしたか?
中村さん
当初から予告されていましたのでなかったですね。それとカチッと切り替えてやろうと決めていたので嫌ではなかったです。この経験で一回自分を浄化できました。草を刈ったりしながら東京のことを思ったりしてました(笑)自分は前に進んでるのかみたいな、、その時に色んなことを考えた時間が肥やしになりました。
藝大では作品を作ろうと思うと、「あなたは何故これを作らなければならないのか?」という。「これが面白いかどうかよりも、あなたしか作れないものなのか?」みたいな。。
アートはそれが大事で、みんな少なからずルーツに戻っていく。。結局僕は人のものまねじゃなく、福岡に生まれた少年しか作れないものを作るべきだし、パッと見て面白くて感じのいいものを作るのも才能なのですが、僕は違うことをしたかったんです。生まれた瞬間から人形があって常に見てきた存在なので、僕は人形を作らなきゃなと。そういう環境(オリジナリティ)がありがたいなと思いました。
普通の人は修行することの不満を漏らしたり反発するらしいんですけど、僕にはありませんでした。
修行時代に考えたこと、体験が太宰府天満宮の文章(作品)になっているのですが、修行時代の思い出をテキスト化して今も残しています。
【Column中村弘峰「花を守る人々」 – 境内美術館|太宰府天満宮】
中村弘峰弘峰さんのコラムにこう書かれている。
" 柿右衛門窯と太宰府天満宮での修行時代学ばせてもらったことが数え切れないほどある中、大切なことが2つがあったそうです。1つ目は、「人生の大きな目的は自分の居場所作り」2つ目は、「ブランドの価値を生み出しているのは、そのブランドに関わる全ての人の真摯で些細な行動の積み重ねということだ。」"
"「最も大切なことをもう一つ思い知った、、〜僕は本当に何かを作ることでしか生きていけないんだということが身に染みた。」"
この一節を読み感じたことそれは人形と人が出会って新しい楽しさ、価値が生まれ、人形と人の関係を大きく変化させていく。
弘峰さんから産み出されるクリエイティブな表現を私たちは見守っていきたいと思っています。
この後は弘峰さんが弟子の期間経ていよいよ独り立ちします。初個展のお話から現在、未来のお話を伺います。
-反発もなく従順というか、順調に修行時代をすごされたのですね。
中村さん
家訓がよかったんですよね。初代が「お粥食ってもいいもん作れ」って。”いいもん”になってるでしょ?”いい人形”じゃなくて、つまりなんでもいいってことなんです。
親の真似をするのもダメ、だから自由度がかなり高くて、ものづくりで人の役には立たないといけないけれど、何を作ってもいいみたいな家系でした。だから挑戦した方がいい、守りに入るほうが怒られる感じでした。
その土壌(環境)が精神衛生上よかったのかなと。
-さて独立されます。最初の作品はどういったものだったんですか?
中村さん
学生の時のバイト先の話に戻りますが、実はバイト先の会社が火事になって電話がかかってきたんです。少し凹んでいたので見に行ったんですよ。そしたら本当に何も残ってなくて。。
火事になる前からギャラリーを始めてらっしゃったので、旦那さんを勇気づける気持ちで初個展をやらせてくださいと頼みました。その時はシンプルにクラシックな人形を展示しました。当時はまだ作風を模索している時で、スサノオを木彫で制作しました。古事記をギリシャ彫刻で作るっていう、、スサノオはトルコあたりで生まれた嵐の神なんです。
-作風が全く違いますね!!かっこいいという言葉さえ陳腐になっちゃいます。。
中村さん
これは根津神社でお祓いもしてもらい、今は福岡のホテルにあります。実はこの作品展で回遊して一番最後に出るとこの目線に、小さな野球のピッチャーの木彫の作品で守護神を展示しました。作品展のテーマは「神」だったので、入り口からは見えないところに最後に「ネタ」として守護神のピッチャーを置いていたらそれがめちゃくちゃ評判良かったです。一瞬で売り切れたのを覚えています。
それで、こどもの日に五月人形で何か作らなきゃいけない時に温めていたアイデアで桃太郎のキャッチャーを作りました。簡単にいうと「現代の桃太郎」で、五月人形はその時代時代の英雄像を形にしていて現代の英雄は誰だろう。。と考えたら大谷翔平だ!っていう感じで作品を制作しました。
ネタの元は初個展の守護神です(笑)
-インタビューの中で江戸時代の腕のいい人形師が現代にタイムスリップしたという設定はどこからきたのでしょうか?
中村さん
アスリートのシリーズが出てきて色々インタビューされることが多くなり、そうなると流れ的には携帯で写真を見せるんです。皆さんに写真を見せたら一瞬で反応してくれるのですが、もっとわかりやすい設定が欲しいなと思い考えました。「なんで作っているの?」って聞かれた時にこの設定を伝えれば皆さんもわかりやすいかなと思います。
-でも本当にその設定通りの人なのかもしれないですね。
中村さん
それはあるかもしれないですね。人形師だし(笑)自己紹介を簡素化したという感じです。
今、江戸時代の人形でいいものを作れる人が本当にいなくなっています。人形師の後継ぎがいるところも数えるほどしかいません。人形文化を残したいという思いもありますし、アートの力を利用して伝統文化を残すんだっていう気持ちで学生の頃からいます。こういう新しいフレーズも駆使しながら昔の日本にもいいものがあったんだよっていうのをみんなに広めています。
-作品もそうですが弘峰さんは人形師の実力は言わずもがななんですが、セルフプロデュース力やアイデアが人よりずば抜けていると感じます。
次にお父さんの流れを継いで、若くして山笠の舁山(かきやま)の製作をすることになっていきます。山笠の制作エピソードを聞かせていただけますか?
中村さん
私が小五の時に父が山笠の仕事を受けました。その舁山が伝説的な話題を呼んだ年でした。
簡単にいうと博多祇園山笠の人形が変わった年になりました。元々シンプルというか簡単な飾りで、担当する土居流もシンプルな感じでした。しかし父は未だかつてないくらいでかいの作るっていうのがテーマで、周りの作品と見比べても全然見栄えや迫力が違う衝撃的なデビュー作になりました。そのようなことがあって、あの時の父さんはすごかったと語り草でしたので、、僕がデビューするときに父のハードルがありますので、1発目(最初)が一番大切だと感じていました。父ちゃんすごいけど息子は微妙だねってなるのはまずい。。山笠は人形単体よりも人形と何かがついていたら湧きます。虎と加藤清正とか。僕も未だかつて作られたことのない題材として、酒呑童子(しゅてんどうじ)の生首の上にデカい源頼光が乗っているのを選び採算度外視で全力でやりました。
-その反響はいかがでしたか?
中村さん
「あれはやばい!」と未だに言ってくれる人がいます。そういう話を直接聞くと嬉しいですね。
-コロナが収まってきてみんなの熱気が戻ってきています。今年の山笠の制作模様を教えてください。
中村さん
今年は相撲の雷電を題材にしました。実は今まで力士って作られていませんでした。
60年前の舁山かなんかに取り上げられたくらいで、関係者や長老も相撲は見たことがないとのことだったので燃えました。加えて、さらに楽しい気持ちも全開でした。初めてのことなのでみんなを沸かせたいなって。山笠はスタイルが確立されるよりも遊んで変わっていく方がいいと思うところもありますので、相撲もいいなと思いテンションを上げて制作しました。
もちろん今年も採算度外視です。(笑)
-私たちも実際に見て感動しました!
中村さん
僕も作り終わってヘトヘトなのに次の日から担がなきゃいけなかったですからね(笑)
来年はいよいよ一番山です!
-命を吹き込むお仕事、それを代々引き継ぐ四代目というプレッシャーはないのですか?
中村さん
今までないって答えてましたが、実は先日あったんだって気づきました。
「中村人形と太宰府天満宮」展のレセプションパーティーでスピーチしなくちゃいけない場があって、突然号泣しちゃったんです。喋っている途中でプレッシャーがあったとその時に気付きました。「人形は人の祈りを形にしているもので人形師は人の祈りを形にする仕事」って言われています。
太宰府天満宮は人の祈りがたくさんくるところです。そういう場所に中村人形四代目の作品がコレクションされていて、そこで人の祈りを形にするとかなんておこがましいんだって。そんなこと軽々しく口にするもんじゃないと。。だけどやらせてもらえている、依頼をいただき、応え続けられている。祈りは重たいものなので、受けているプレッシャーが僕にもあったんだと気付きました。おこがましいことを口にしてはいけませんが、皆さんが期待してくれてる分応えなきゃいけないと。普段は夢中になって気付きづらいのですが、自分の歴史とか神社の祈りとかが交差するポイントに立った瞬間にふと気付いたことでした。
-祈りを形にするお仕事の重要なポイントだったんですね。弘峰さんが大切にする三種の神器を聞かせてください。
中村さん
まずヘラです。ヘラ一本あれば生きていけますから、それと筆、色を塗るからです。
今筆屋もどんどんなくなっています。。。筆はやっぱり日本クオリティが素晴らしいですね。これがあれば人形は作れます。
最後は「祈り」です、これが一番大切です。
-四代目を継承していくにあたって、守るべきものや変えていくもの(変化)はなんでしょうか。
中村さん
「お粥食ってもいいもん作れ」っていう家訓にいつも立ち返りますが、、結局は妥協しないことです。時代がどんどん変わってもこれは変わらないですね。それに併せて自分も時代に合わせて変わることが必要だと思っています。自分自身は確立していくものだと思うんですけど、実はそこにはあまり興味がなくて、無限に変わり続けられるっていうのがいいなって思います。作る、制作するものは変えていっていいけど、守るものは家訓です。でも「いいもん」は変わっていくので受け入れていきます。
-僕らも地域の伝統を守るような仕事に携わっています。だから今回コラボレーションを依頼しました。高千穂の文化に触れてみてどうですか?
中村さん
知らないことが多いなと思います。九州でこんなに知らなくて感動することがあると気付きましたね。山人参的なものが一個見つかったことで、まだ他の地域にもあるんじゃないかなって思います。
-今回のパッケージの制作について伺います。どのようなイメージでつくられましたか?
中村さん
アーティストコラボに選んでもらって光栄です。これまで立体系の人がいなかったから、人形を作ってその写真を使い、今までとは違うパッケージの見た目にしたいなと考えています。ユンケル感みたいなみんな思っている怪しさを敢えて前面に出して逆説的に怪しくないっていうのを証明するっていう(笑)これまでのコラボとは違うようなものを作りたいなと、、
TボーイのためのDボーイ 笑
-拝見しましたが素晴らしい人形の制作ありがとうございました。感動、驚愕、嬉しさ100倍です。山人参の質問になりますが飲んでみていかがですか?
中村さん
朝起きたいときに飲みます。だいたいお酒を飲むんですが、山人参を飲むとお酒の抜けもいいし睡眠が6時間でも濃いなって思います。そういう意味で助かっています。
-普段の生活で大切にしていることってありますか?
中村さん
スクワットですかね。あとは4時に起きるから9時半には寝ますね。それが健康の秘訣ですかね。運動はしない方がいいって言われてしてないです。体が酸化するって言われて。歩くのはいいと聞きますが、スクワットをしないとコンディションが悪くなりますね。
-忙しく生活している中、山人参はどんな存在になりましたか?
中村さん
お守りですかね。笑 ジャケもカラーリングがお札感ありますしね。カバンにも入りやすくて良いです。
-嬉しいです!人形作りを通して弘峰さんが伝えたいことってなんでしょうか?
中村さん
僕は日本の人形文化を残すために生まれてきたので、人形文化の入り口に入って日本文化にも影響を与えられればいいなと考えています。日本(人)は素材を引き立たせる天才だと思うので、そういう部分をたくさんの方に気づいてもらえたらと思います。世界中の人がこの文化を残さなければならないって思うようになって欲しいです。日本文化を守るお手伝いをしたいと思っております。
-最後になりましたが11/9東京 日本橋高島屋本館6階 美術画廊Xでスタートする「化身」の詳細を教えてください。
中村さん
美術画廊Xという場所で4年ぶり2回目の個展をします。ここは多くの人に見ていただいたきっかけとなった場所なので、新しい展開を見せたいと思っています。アスリートシリーズの最新版のプロレスをお見せする予定です。制作を進めていたら、、先日猪木さんが亡くなったり、、そういうタイミングでプロレスを作っていると皆さんがいろんなことを思っていただけるのではないかと思います。
タイトルの「化身」ですが、僕の作る人形達が何かのエナジーを纏った存在でいろんな人の願いや希望を乗っけている「何か人の形」をしたエネルギー体なのかなと。プロレスも人の夢を持って戦って、負けても勝ってもプロレスはどっちでもいい、だから人の想いがのっている「化身」なんですよ。
それぞれに共通するワードが「化身」かなと思いこのテーマにしました。
完成度は五合目です(笑)山人参たくさん飲みたいと思います。
-本日はありがとうございました!
このインタビューは個展の直前に貴重なお時間をいただき、たくさんの質問をぶつけてきました、インタビュー時間はなんと三時間!忙しい時に気持ちよくインタビューを受けていただいて私共は恐縮プラス感謝しかありません。
初日11/9東京 日本橋高島屋で個展「化身」を見てきました。
作品はさらにアップデートされ、圧巻の個展でした。メイン作品でもあるマスクマンのプロレスラーはなんとも言えない表情で技を「ガチッ」とかけ、すぐにでも動き出しそうなリアル感を放っていました。
言葉で説明すること自体陳腐になりそうなので、中村人形4代目弘峰さんの世界観を皆様に現地でぜひ体感してほしいと思います。
個展スケジュールや弘峰さんのSNSリンク、細かい情報は以下からチェックしてください。
世界に誇る人形師4代目を私たちはずっと追いかけていきたいと思います。
まだまだ面白い話はありますがその話は番外編でまた出したいと思います。
Draw pack ver.7 は本日より発売です!数に限りがありますのでお早めにご購入ください。
弘峰さんデザインオリジナルステッカーもついてきます!
中村弘峰
福岡に工房を構える中村人形の四代目。
「人形とは人の祈りを形にしたもの」を理念としている。
自身に「もしも江戸時代の腕の良い人形師が現代にタイムスリップしてきたら?」という設定を課して、過去と現代にまたがる普遍的な主題を見つけ、江戸期の人形技法を応用して人形文化を未来に残すための作品を制作している。
粘土の素焼きに彩色をした博多人形をルーツに持つが作品制作において技法や素材はそれだけに留めず、木、紙、布、石、金属など作品に応じて使用する。
1986 福岡県福岡市生まれ
2009 東京藝術大学美術学部彫刻科卒業
2011 東京藝術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了
2011 人形師で父の中村信喬に師事
福岡県太宰府天満宮干支置物制作
博多祇園山笠土居流 舁山制作
中村 弘峰 個展「化身」
会場: 日本橋髙島屋本館6階画廊X
会期: 11/9〜11/28